読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

個人のパフォーマンスと社会的評価の相反

今はIPAX 2007に出展する準備を進めているのですが、どうも気が乗らない。今のVIVERの紹介文を書くよりも、今は分散ファイルシステムを考えていた方がおもしろい。

ふと、何故気が乗らないのかと考えてみると、考えていることが全部過去ことだからではないかと思った。

ネットワークブートして、ハードウェアを自動検出して、ディストリビューションに依存していなくて、コマンド数発でブートメディアを作成できて…という話は、私の中では「過去の技術」でしかない。

もちろんVIVERは、正常終了できないとか、すべてのホストにパッチを当てるなどといったことができないとか、セキュリティがまったくないとか、技術的な課題もたくさん残っているわけですが、ネットワークブートしてみたいという、当初の興味から見ればまったく別の話題になる。

今は、分散ファイルシステムや、分散ネットワークサービスの自動構築、自己最適化、自己修復といった技術、そしてそれらをどう実装するかという話題に興味がある。「共有」擬似端末なんてものも楽しく作っていたりする。

これらのことは、私にとって「未知の技術」である。



ところで、分散ファイルシステムを設計しているときでも、「新しいものを作っている」という感覚は、あまり無い。既存の技術(OSやライブラリ、「過去の技術」 、「過去の知識」…)をどう組み合わせれば、やりたいことを実現できるか。ジグソーパズルをやっている感覚に近い。ジグソーパズルと言うよりLEGOか。

ピースがたくさんあった方が楽しいものが作れる。そして、作ってみたいのに、手持ちのピースだけではどうしても作れそうにないものが出てくる。そうなったら、新しいピースを集めてくる。ピースを自分で作るわけではない。究極的に、かつ物理的(技術的)には、ピースを新たに作ることは不可能である。なぜなら地球はもうできてしまっているし、自然法則には逆らえないからである。(思想的には、おそらく別である。新たな思想を作ることは可能である、と私は思っているが、その道の人に言わせればそうではないかもしれない)

つまり、「新しいものを作っている」のではなく、「今まで知らなかった(だが既に存在する)ことを、新たに知ろうとしている」のである。



さて、新しいことを知るというのは、非常に面白い。しかし過去のことはもう新たに知ることができないので、面白味がない。(一度全部忘れてしまうとまた面白くなるのかもしれない)

人が何かを作っているとき、あるいは作り終わったとき、それが世の中的に新しいのか、もう新しくないのかは、その人にとって新しいかどうかとは関係ない。VIVERで実現されてしまったことは、私的には過去である。それが世の中に新しいかどうかは、まぁどっちでもいい。それはもういいから、新しいことをやりたいのである。VIVERと絡めるとしても、VIVERを発展させると何ができるのか、VIVERの技術をベースに何かできないか、実はとんでもない活用につながるんじゃないか。そっちの方がずっと面白い。



一方で、ある人にとっては過去のことであっても、それが世の中的にも過去であるかというと、それはやっぱり関係ない。そして、世の中的に新しいことをしたのならば、社会に還元すべきである。

ここで、社会的利益と、個人のパフォーマンスは、相反する。当然、個人のパフォーマンスは楽しくやっているときに最も高くなるが(これは私的には既知である)、それだけでは世の中は良くならない。社会的評価に繋がらない。


今私は学生で不自由していない幸せな立場にいるので、社会的評価を求めなければ自分のパフォーマンスを最大化することだけを考えていても不都合は無い。そのため、基本的にはいつも自分のパフォーマンスを最大化することばかりを考えている。…つまり、面白いと思うことばかりやっている。